レポート

2025.07.21(月) 公開

【2025年最新】EU AI法を徹底解説!日本の新法との比較から今後の影響まで

レポート NOB DATA株式会社

1. はじめに

2025年、私たちはAI規制の新たな時代に突入しました。2024年に成立した欧州連合(EU)の「AI法(AI Act)」が、2025年2月2日から段階的に適用を開始し、世界で初めての包括的なAIに関する法的枠組みが現実のものとなったのです 。この法律は、AI技術の発展における歴史的な転換点であり、その影響はEU域内にとどまらず、世界中の企業や政府、そして私たちの社会全体に及んでいます。本稿は、このEU AI法について、その全体像から日本企業が取るべき具体的な対策まで、2025年現在の最新情報に基づき、網羅的かつ専門的な視点から解説することを目的とします。

AI技術は、医療の向上、交通の効率化、持続可能なエネルギー開発など、社会に多大な便益をもたらす可能性を秘めています。しかしその一方で、AIが生み出す判断が差別を助長したり、個人の権利を侵害したり、社会に望ましくない結果をもたらしたりするリスクも存在します。このような背景から、AIのイノベーションを促進しつつ、その有害な影響から市民を守るための明確なルールが必要とされてきました。

本稿では、まず「EU AI法とは何か」という概要を解説し、次に法律が成立するまでの「経緯」と現在の適用状況をたどります。そして、法律の中核をなす「リスクベースアプローチ」を詳細に分析し、2025年6月に公布された「日本のAI基本法」との比較を通じてその特徴を浮き彫りにします。最後に、「AI法の今後の展望」として、グローバルな影響と日本企業が直面する課題、そして具体的な対応策を提示します。本稿が、複雑化するAI規制の動向を理解し、未来のビジネス戦略を構想するための一助となれば幸いです。

2. EU AI法とは?世界初の包括的AI規制の全体像

EU AI法(正式名称:人工知能に関する調和規則を定める規則 (EU) 2024/1689)は、単なる技術規制の枠を超えた、EUの「デジタル主権」を具現化する戦略的な法律です 。この法律は、EUの価値観を世界に広めるための強力なツールとして設計されており、その構造自体がグローバルな影響力を持つことを意図しています。

この法律が目指すのは、イノベーションを支援しながらも、AIがもたらすリスクから市民の健康、安全、そして民主主義や法の支配といった基本的権利を高水準で保護することです。この目的を達成するため、EUは周到な法的枠組みを構築しました。その核心は、EU全域で直接適用される「規則」という形式、EU域外の企業にも適用される「域外適用」、そして違反に対する「巨額の制裁金」という3つの柱にあります。これらの要素が組み合わさることで、EUは巨大な単一市場のルールメーカーとしての地位を確立し、世界中の企業にEU基準の遵守を促します。これは、かつてGDPR(一般データ保護規則)で成功を収めた「ブリュッセル効果」の再現を狙った明確な戦略と言えるでしょう。

2.1 目的:信頼できるAIの促進と基本的権利の保護

EU AI法の根底には、二つの大きな目的があります。第一の目的は、人間中心で信頼できる(trustworthy)AIの導入を促進し、イノベーションを支援することです。EUはAI技術が社会にもたらす多大な便益を認識しており、安全で予測可能な法的環境を整備することで、企業が安心してAIの開発・投資を行えるようにすることを目指しています。

第二の、そしてより重要な目的は、AIシステムの有害な影響に対して、健康、安全、民主主義、法の支配、環境保護といったEUの基本的権利を高水準で保護することです。これは、AI法が単なる産業振興法や技術標準法ではなく、EUの価値観や社会規範をAI時代においても堅持するための「基本的人権保護法」としての側面を強く持つことを示しています。特に、個人の脆弱性を利用する操作的なAIや、差別的な判断を下すAIから市民を守ることに重きが置かれています。

2.2 特徴:「規則」としての法的拘束力と域外適用

EU AI法の強力な影響力を理解する上で、その法形式と適用範囲は極めて重要です。

まず、この法律はEU法における「規則(Regulation)」として制定されました。これは、加盟国が国内法を制定して初めて効力を持つ「指令(Directive)」とは異なり、EUの官報で公布されると同時に、27の全加盟国で直接的かつ統一的に適用される法的拘束力を持ちます。これにより、EU域内ではAIに関するルールが一本化され、企業は国ごとに異なる法律に対応する必要がなくなります。

次に、本法の最も重要な特徴の一つが「域外適用」です。これは、企業の所在地がEU域内か域外かを問わず、以下のいずれかに該当する場合に法律が適用されることを意味します。

  • AIシステムをEU市場に投入(market placement)またはサービス提供(putting into service)する事業者(プロバイダー)。例えば、日本の企業が開発したAI監視カメラをEU市場に提供する場合などがこれにあたります。

  • EU域内に所在し、AIシステムを導入・利用する者(デプロイヤー)。

  • AIシステムが生み出した出力(output)がEU域内で利用される場合。例えば、日本国内のサーバーでAIによるデータ分析を行い、その分析結果をEU域内の支社が業務で利用する場合も適用対象となり得ます。

この広範な域外適用により、EUと直接的な取引がないと考えている日本企業であっても、サプライチェーンや業務プロセスの中で意図せず規制対象となる可能性があるため、細心の注意が必要です。

2.3 罰則:最大で全世界売上高の7%という厳しい制裁

EU AI法は、その実効性を担保するために、極めて厳しい罰則規定を設けています。違反行為の種類に応じて、制裁金の上限が設定されており、その額は企業のコンプライアンス体制に大きな影響を与えます。

  • 禁止されているAIプラクティス(許容できないリスク)への違反:
    最大で3,500万ユーロ、または前会計年度の全世界年間売上高の7%のいずれか高い方が上限となります。

  • ハイリスクAIの義務違反など、その他の主要な義務違反:
    最大で1,500万ユーロ、または全世界年間売上高の3%のいずれか高い方が上限です。

  • 規制当局への不正確・不完全な情報の提供:
    最大で750万ユーロ、または全世界年間売上高の1.5%のいずれか高い方が上限とされます。

特筆すべきは、最も重い違反に対する罰金の上限が、GDPRで定められた「全世界売上高の4%」を大きく上回る「7%」に設定されている点です。これは、EUがAIのリスクをいかに深刻に捉え、規制遵守を徹底させようとしているかの表れです。

3. EU AI法の成立経緯と現在の適用状況

EU AI法の成立は、一朝一夕になされたものではありません。技術の急速な進化と社会的な懸念の高まりを背景に、数年間にわたる複雑な交渉と妥協の末に実現しました。特に、法案審議の最終段階で登場した生成AI(Generative AI)は、規制のあり方を巡る議論を白熱させ、法律の最終的な形に大きな影響を与えました。

3.1 2021年の提案から2024年の成立までの道のり

EU AI法が誕生するまでの道のりは、以下の主要なマイルストーンをたどりました。

  • 2021年4月:
    欧州委員会が、世界初となる包括的なAI規制法案を提案。この時点で、AIシステムをリスクのレベルに応じて分類する「リスクベースアプローチ」の基本骨格が示されました。

  • 2022年12月:
    EU理事会(加盟国の閣僚で構成)が、法案に対する修正案を採択。

  • 2023年6月:
    欧州議会が、より厳格な市民保護を求める立場から、独自の修正案を採択。

  • 2023年12月:
    欧州委員会、EU理事会、欧州議会の三者による非公式な交渉(トリローグ)の末、法案の最終的な内容について「政治的合意」に到達。

  • 2024年3月~5月:
    欧州議会およびEU理事会が、合意された法文案をそれぞれ正式に承認。

  • 2024年6月:
    AI法が正式に採択・成立。

  • 2024年8月1日:
    AI法が施行。

3.2 交渉の主要な争点:生成AIと顔認証の扱い

交渉は、特に2つの大きなテーマを巡って難航しました。

第一の争点は、生成AI(GPAI)の扱いでした。2022年末のChatGPTの登場は、当初の法案が想定していなかった新たなリスクと可能性を提示しました。欧州議会は、著作権侵害や偽情報生成のリスクを重く見て、生成AIに厳格な規制を課すことを主張しました。一方、フランスやドイツなどの一部加盟国は、過度な規制が欧州のAI産業の国際競争力を削ぐことを懸念し、イノベーションを阻害しない柔軟なアプローチを求めました。最終的に、全ての汎用AIモデルに透明性義務を課し、特に社会に大きな影響を与えうる「システミックリスクを有するGPAIモデル」に対しては、モデル評価やリスク管理といった追加の重い義務を課すという妥協案で合意に至りました。

第二の争点は、公共の場でのリアルタイム遠隔生体認証(顔認証など)の利用でした。欧州議会は、プライバシーと基本的権利への深刻な脅威であるとして、法執行目的での利用を全面的に禁止するよう強く求めました 。これに対し、EU理事会(加盟国)は、テロ対策や重大犯罪の捜査といった安全保障上の観点から、その必要性を主張しました。最終的な合意では、原則禁止としつつも、テロ攻撃の防止や重大犯罪の容疑者の捜索など、極めて限定的かつ厳格な条件下でのみ例外的に利用を認めるという形に落ち着きました。

3.3 段階的な適用スケジュール:2025年2月からの禁止事項と今後の義務化

EU AI法は2024年8月に施行されましたが、その全ての規定が直ちに適用されるわけではありません。企業や規制当局が準備を整えるための期間が設けられており、規制内容は段階的に義務化されます。

  • 施行後6ヶ月(2025年2月2日):
    「許容できないリスク」を持つAIシステムの禁止規定が適用開始済みです。

  • 施行後9ヶ月(2025年5月頃):
    自主的な行動規範(Codes of Practice)に関する規定が適用されます。

  • 施行後12ヶ月(2025年8月頃):
    汎用AI(GPAI)モデルに関する規則(透明性義務など)が適用開始となります。

  • 施行後24ヶ月(2026年8月頃):
    法律の大部分が本格的に適用開始となります。

  • 施行後36ヶ月(2027年8月頃):
    「ハイリスクAI」に関する義務(適合性評価など)が完全に適用開始となります。

この段階的なスケジュールは、企業にとってコンプライアンス体制を計画的に構築するための猶予期間となります。特に、最も複雑で広範な対応が求められるハイリスクAIに関する義務については、比較的長い準備期間が与えられています。

4. 【最重要】リスクベースアプローチの詳細解説

EU AI法の中核をなすのが、「リスクベースアプローチ」という考え方です。これは、AIシステムが人間の安全や基本的権利に与える潜在的なリスクの大きさに応じて、規制のレベルを4段階に分類し、それぞれ異なる義務を課すというものです。このアプローチにより、社会にとって脅威となるAIは厳しく制限し、便益をもたらすリスクの低いAIのイノベーションは阻害しないという、メリハリの効いた規制体系を実現しようとしています。

特に重要なのが「ハイリスク」に分類されるAIシステムです。このカテゴリは、雇用や教育、重要インフラといった社会的に影響の大きい分野を広くカバーしており、ここに該当するAIには極めて厳格な義務が課せられます。

4.1 4つのリスクレベルの概要

AI法は、AIシステムを以下の4つのリスクレベルに分類します。

  • 許容できないリスク (Unacceptable Risk):
    EUの価値観に反し、市民への脅威とみなされるため、原則として禁止されるAI。

  • ハイリスク (High Risk):
    健康、安全、基本的権利に重大なリスクをもたらす可能性があり、厳格な義務を遵守しなければ市場に出せないAI。

  • 限定的リスク (Limited Risk):
    利用者に透明性を確保するための特定の開示義務が課されるAI。

  • 最小リスク (Minimal Risk):
    リスクがほとんどないか、全くないと見なされ、規制の対象外となるAI。

これらに加え、特定の用途に縛られない「汎用AI(GPAI)モデル」には、別途特別なルールが設けられています。

4.2 レベル1:許容できないリスク(禁止されるAI)

このカテゴリに分類されるAIシステムは、EUの基本的価値や市民の権利に対する明確な脅威と見なされ、2025年2月2日より、EU域内での市場投入、サービス提供、利用が全面的に禁止されています。

4.2.1 具体的な禁止事項

禁止されるAIプラクティスの代表例は以下の通りです。

  • 人間の行動の操作:
    意識下で働きかけるサブリミナル技術や、個人の年齢や障害といった脆弱性を悪用して、有害な行動をとらせるよう意図的に操作するAI。

  • ソーシャルスコアリング:
    個人の行動や社会的・経済的状況に基づいて評価を行い、不利益な扱いにつながるような、公的機関による社会的な格付けシステム。

  • 感情認識:
    医療や安全上の目的を除き、職場や教育機関において個人の感情を推測・分析するAIシステム。

  • 犯罪予測:
    個人のプロファイリングのみに基づいて、犯罪を犯すリスクを予測するAIシステム。

  • 無差別な顔画像収集:
    インターネットや監視カメラから顔画像を無差別に収集し、顔認識データベースを作成・拡張すること。

  • リアルタイム遠隔生体認証:
    公共の場で、法執行機関がリアルタイムに不特定多数の個人を識別するシステム。ただし、テロ攻撃の防止など、極めて厳格な要件下での例外が認められています。

4.3 レベル2:ハイリスクAI

ハイリスクAIは、禁止はされないものの、個人の健康、安全、基本的権利に重大な悪影響を及ぼす可能性があるため、市場に投入する前に極めて厳格な要件を満たすことが義務付けられています。

4.3.1 対象となる分野(Annex III)

法律の附属書III(Annex III)には、ハイリスクと見なされる具体的なユースケースがリストアップされています。主な分野は以下の通りです。

  • 重要インフラ:
    交通、水道、エネルギー供給網などの管理・運用に使用される安全コンポーネント。

  • 教育・職業訓練:
    入学許可の判断、試験の採点、不正行為の監視などに使われるAI。

  • 雇用・労務管理:
    履歴書のスクリーニングソフト、採用面接、昇進や解雇の判断、業務のパフォーマンス評価に使われるAI。

  • 必要不可欠なサービスへのアクセス:
    個人の信用力を評価するクレジットスコアリング、生命保険の料率設定、社会保障給付の受給資格を判断するAI。

  • 法執行・移民・司法:
    証拠の信頼性評価、ビザ申請の審査、司法判断の支援などに使われるAI。

ただし、これらの分野で利用されるAIでも、人の健康、安全、基本的権利に重大なリスクをもたらさない場合はハイリスクとは見なされない例外規定もあります。

4.3.2 プロバイダーと導入者に課される厳格な義務

ハイリスクAIの提供者(プロバイダー)と導入者(デプロイヤー)は、以下の厳格な義務を遵守しなければなりません。

  • リスク管理システムの確立・運用:
    AIのライフサイクル全体を通じて、継続的にリスクを特定、評価、分析し、低減策を講じるためのシステムを構築し、文書化する必要があります。

  • データとデータガバナンス:
    AIモデルの学習、検証、テストに使用するデータセットは、高品質で、目的に対して適切かつ代表的であり、エラーや偏りを最小限に抑えるための措置が講じられている必要があります。

  • 技術文書の作成・保管:
    システムの目的、能力、限界などを詳細に記述した技術文書を作成し、市場に存在する限り最新の状態に保ち、当局の要求に応じて提出できるようにしなければなりません。

  • 記録保存(ロギング):
    システムの運用中に発生したイベントを自動的に記録(ロギング)し、結果のトレーサビリティ(追跡可能性)を確保する機能を備える必要があります。

  • 透明性と情報提供:
    導入者(ユーザー)がシステムを正しく理解し、適切に利用できるよう、明確かつ十分な使用説明書を提供しなければなりません。

  • 人的監視:
    システムの利用中に、人間が効果的に監視し、必要に応じて介入・停止できるような設計と運用体制が求められます。

  • 正確性、堅牢性、サイバーセキュリティ:
    システムはその目的に応じた高いレベルの正確性を持ち、エラーや矛盾に対して頑健(ロバスト)であり、サイバーセキュリティ対策が施されていなければなりません。

  • 適合性評価とCEマーキング:
    市場投入前に、これらの要件を満たしていることを証明するための「適合性評価」手続き(原則として自己評価、一部は第三者機関による評価)を経る必要があります。適合が確認されると、製品にCEマークを貼付することが義務付けられます。

4.4 レベル3:限定的リスクAI

このカテゴリのAIシステムは、重大なリスクはないものの、利用者がAIと対話していることを知らずに騙されたり、AIが生成したコンテンツを本物と誤認したりするリスクがあるため、特定の「透明性義務」が課せられます。

4.4.1 透明性義務の具体例

  • チャットボット:
    ユーザーが人間ではなくAIシステムと対話していることを、明確に開示しなければなりません。

  • ディープフェイク:
    AIによって人工的に生成または操作された画像、音声、動画コンテンツ(いわゆるディープフェイク)は、それがAIによる生成物であることを明確にラベル付けする必要があります。

  • AI生成テキスト:
    公共の関心事について情報を広める目的でAIが生成したテキストについても、それがAIによって生成されたものであることを開示する義務があります。

4.5 レベル4:最小リスクAI

EUで現在使用されているAIシステムの大部分がこのカテゴリに該当すると考えられています。具体的には、AIを利用したビデオゲームやスパムメールフィルターなどが含まれます。これらのAIシステムは、市民の権利や安全に対するリスクが極めて小さいか、または全くないと見なされるため、AI法に基づく法的な義務は課されません。ただし、事業者に対しては、信頼性を高めるための自主的な行動規範(Code of Conduct)を策定し、遵守することが奨励されています。

4.6 特別ルール:汎用AI(GPAI)モデルへの規制

リスクベースアプローチの4分類とは別に、特定の用途に限定されず、多様なタスクを実行可能な基盤モデル、いわゆる「汎用AI(General-Purpose AI, GPAI)モデル」(ChatGPTの基盤技術であるGPTシリーズなどが代表例)に対しては、特別な規制が設けられています。

全てのGPAIモデルの提供者には、以下のような透明性に関する義務が課されます。

  • モデルの性能や限界などを詳述した技術文書を作成し、規制当局の要請に応じて提出すること。

  • モデルを自社のAIシステムに組み込む下流の事業者に対して、必要な情報を提供すること。

  • モデルの学習に使用したコンテンツがEUの著作権法を遵守していることを確認する方針を策定・公開すること。

さらに、その計算能力などから社会経済に大きな影響を与え、システミックなリスクをもたらす可能性があると判断されたGPAIモデル(システミックリスクを有するGPAIモデル)には、上記の義務に加えて、以下のようなさらに重い義務が課せられます。

  • 標準化されたモデル評価の実施。

  • システミックリスクの評価と軽減策の実施。

  • 重大なインシデントの追跡と、欧州AIオフィスへの報告。

  • 高水準のサイバーセキュリティ対策の確保。

5. 日本のAI規制との徹底比較:EU「ハードロー」 vs 日本「ソフトロー」

EUと日本のAIに対する規制アプローチは、その思想的背景から具体的な手法に至るまで、対照的な特徴を持っています。EUが市民の「基本的権利の保護」を起点に、法的拘束力のある厳格なルール(ハードロー)を構築するのに対し、日本は「経済成長とイノベーションの促進」を重視し、事業者の自主性を尊重する柔軟な枠組み(ソフトロー)を基本としています。

この根本的な違いは、両者がAIという技術をどのようなレンズを通して見ているかを反映しています。EUはAIをまず市民社会への「潜在的リスク」として捉え、予防原則に基づいて管理しようとします。一方、日本はAIを「経済的機会」として捉え、国際競争に勝ち抜くための産業政策として、アジャイルなガバナンスを推進しようとしています。これはどちらが優れているかという問題ではなく、異なる社会政治的文脈から生まれた、異なる目的のための異なるツールと言えるでしょう。

5.1 規制アプローチの違い:リスクベースの義務 vs 原則ベースの自主的取組

EU AI法のアプローチは、明確な「トップダウン型」の規制です。法律によってリスクを定義し、禁止事項や遵守すべき義務を具体的に定め、違反した場合には厳しい罰則を科すという「ハードロー」です。これは、AIがもたらしうる危害を未然に防ぐことを最優先する「予防原則」の考え方に基づいています。

対照的に、日本のAIガバナンスは、事業者の自主的な取り組みを促す「ボトムアップ型」のアプローチを基本とします。「AI事業者ガイドライン」に代表されるように、政府は法的拘束力のない「ソフトロー」を提示し、企業がそれに沿って自主的にガバナンス体制を構築することを期待します。これは、急速に変化する技術に対して、硬直的な法律でイノベーションの芽を摘むことを避け、柔軟に対応しようとする「アジャイル・ガバナンス」の思想を反映しています。

5.2 日本の「AI事業者ガイドライン」と2025年公布の「AI基本法」

5.2.1 思想的背景:イノベーション促進とアジャイル・ガバナンス

日本のAIガバナンスの中核を担ってきたのは、2024年4月に経済産業省と総務省が統合・改訂して公表した「AI事業者ガイドライン」です 。これは、それまで各省庁が個別に策定していた複数のガイドラインを一本化し、AIの開発者、提供者、利用者が参照すべき統一的な指針として位置づけられています 。このガイドラインは、「人間中心」「安全性」「公平性」など10項目の共通指針を掲げていますが、これらはあくまで事業者が自主的に取り組むべき努力目標であり、法的な強制力はありません。

さらに、2025年6月4日に公布された「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律」(通称:AI基本法)も、このソフトロー路線を補強するものです。この法律は、EU AI法のような直接的な規制法ではなく、AIに関する国の基本戦略を策定し、その司令塔として内閣に「AI戦略本部」を設置することを定めた「基本法」です。その目的は、研究開発の促進、人材育成、インフラ整備などを通じて、日本のAI分野における国際競争力を高めることにあります。

5.2.2 規制の枠組みと実効性

日本のAI基本法には、EU AI法のような罰則規定は存在しません。民間事業者に対する直接的な法的義務も、「国が実施する施策に協力する」といった限定的なものにとどまります。

実効性の担保は、AI戦略本部が持つ権限によって図られます。国は、AIの不適切な利用による権利侵害事案などについて調査・分析を行い、その結果に基づいて、事業者に対して「指導・助言・情報の提供」といった措置を講じることができます。改善が見られない悪質なケースでは、「事業者名を公表する」といった手段も検討されており、法的な強制力はなくとも、企業の評判(レピュテーション)に訴えかけることで、ガイドライン等の遵守を促す仕組みとなっています。

5.3 比較表:EU AI法と日本のAI規制の相違点

比較項目
EU AI法
日本のAI規制(AI基本法・事業者ガイドライン)
思想的背景
基本的権利の保護、予防原則。市民をAIのリスクから守ることを最優先。
イノベーション促進、産業競争力強化 。経済成長を目的とした産業政策が中心。
規制アプローチ
リスクベースのハードロー 。リスクレベルに応じた法的義務と禁止事項を明記。
原則ベースのソフトロー 。自主的な取り組みを促す非拘束的なガイドラインが中心。
法的形式
規則(Regulation)。EU全域で直接適用される法的拘束力のある法律。
基本法 + ガイドライン 。国の責務を定める基本法と、事業者の行動指針を示すガイドラインの組み合わせ。
対象範囲
プロバイダー、デプロイヤー等 。EU市場に関わる全ての主体が対象。
広範な域外適用あり。
AI活用事業者等 。国内事業者が主だが、国外事業者も対象に含めることが想定されている。
主な義務
禁止、厳格な要件遵守(ハイリスクAI)。リスク管理、データガバナンス、技術文書、人的監視、適合性評価等。
努力義務、国への協力義務 。ガイドラインの指針に沿った自主的なガバナンス構築が求められる。
罰則
あり(非常に高額)。最大で全世界売上高の7%の罰金。
なし(直接的な罰則はない) 。指導・助言、事業者名公表などの行政措置。
ガバナンス機関
欧州AIオフィス、各国の監督当局。法執行と市場監視を担う規制機関。
AI戦略本部(内閣)。国のAI戦略を策定・推進する司令塔。

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この比較から明らかなように、EU AI法への対応は法務・コンプライアンス上の必須課題である一方、日本の規制への対応は、企業の社会的責任(CSR)や自主的なガバナンス強化の一環としての側面が強いと言えます。

6. EU AI法の今後とグローバルな影響

EU AI法の成立は、ゴールではなく、世界のAIガバナンスを巡る新たな時代の幕開けです。この法律がGDPRのようにグローバルスタンダードとなる「ブリュッセル効果」を発揮するのか、そしてその施行を担う「欧州AIオフィス」がどのような役割を果たしていくのか。その動向は、EU域外の日本企業にとっても決して対岸の火事ではありません。

6.1 「ブリュッセル効果」の再来:GDPRに続く世界標準となるか

「ブリュッセル効果」とは、EUがその巨大な単一市場の魅力を背景に厳格な製品・サービス基準を導入すると、世界中のグローバル企業がEU市場へのアクセスのためにその基準に対応せざるを得なくなり、結果としてEUのルールが事実上の国際標準(デファクトスタンダード)となる現象を指します。

この最も成功した例が、2018年に施行されたGDPRです。GDPRの登場後、ブラジル、日本、韓国など、世界中の多くの国がGDPRに類似したデータ保護法を導入しました。企業も、国ごとに異なるルールを管理するコストを嫌い、最も厳しいEUの基準をグローバルな標準として採用する傾向が強まりました。

EU AI法も、このGDPRの軌跡をたどる可能性が非常に高いと考えられています。世界で初めての包括的なAI規制であること、広範な域外適用を持つこと、そして違反に対する厳しい罰則を備えていることから、世界のAIガバナンスに関する議論の主導権を握り、今後のグローバルなルール形成に決定的な影響を与えることが予想されます。

6.2 欧州AIオフィス(EU AI Office)の役割と権限

EU AI法の円滑な施行と統一的な運用を確保するため、欧州委員会内に新たな専門機関として「欧州AIオフィス(EU AI Office)」が設立されました。この組織は、今後のAI規制の方向性を左右する重要な役割を担います。

主な役割と権限は以下の通りです。

  • 法執行の調整と監督:
    加盟国ごとの監督当局と連携し、AI法がEU全域で一貫して適用されるよう調整・監督します。

  • 汎用AI(GPAI)モデルの監視:
    特にシステミックリスクを有するGPAIモデルを監視し、その評価基準やテスト方法を策定します。AI法の解釈に関するガイドラインを発行し、事実上のルール形成を主導します。

  • 行動規範と標準化の促進:
    産業界、学術界、市民社会と協力し、AIに関する自主的な行動規範の策定や、技術標準の整備を促進します。

  • 国際協力の推進:
    米国やG7諸国など、EU域外のパートナーと連携し、AIガバナンスに関する国際的な協調と整合性を図ります。

企業にとって、この欧州AIオフィスが発表するガイドラインや解釈、決定は、法律の条文そのものと同じくらい重要になります。その動向を継続的に監視し、自社のコンプライアンス体制に反映させていくことが不可欠です。

6.3 日本企業への影響と取るべき具体的対策

EU市場でビジネスを展開する、あるいは将来的に展開する可能性のある日本企業は、EU AI法への対応を喫緊の経営課題として捉え、計画的に準備を進める必要があります。そのための具体的なステップは以下の通りです。

6.3.1 自社AIの棚卸しとリスク分類

まず最初に行うべきは、自社が開発、提供、あるいは業務で利用している全てのAIシステムを洗い出し、一覧化(インベントリを作成)することです。これには、自社製品に組み込まれたAIだけでなく、人事評価やマーケティング、バックオフィス業務などで利用しているサードパーティ製のAIツールも含まれます。

次に、作成したインベントリに基づき、各AIシステムがEU AI法のリスク分類(許容できないリスク、ハイリスク、限定的リスク、最小リスク)のどれに該当するかを慎重に評価します。特に、附属書IIIに記載された分野(雇用、教育、重要インフラなど)に少しでも関連するAIは、ハイリスクに該当する可能性を念頭に置いて、詳細な法的・技術的検討を行う必要があります。

6.3.2 ギャップ分析とコンプライアンス体制の構築

自社のAIがハイリスクに分類されると判断された場合、次にAI法が要求する厳格な義務(3.3.2.参照)と、自社の現在の管理体制との間の「ギャップ分析」を実施します。例えば、「リスク管理システムは文書化されているか」「学習データの品質と偏りは管理されているか」「人的監視の仕組みは確立されているか」といった項目を一つひとつ点検します。

ギャップ分析の結果に基づき、それを埋めるための具体的なアクションプランを策定し、実行に移します。これには、リスク管理や品質管理に関する社内規程の整備、技術文書の作成、従業員へのトレーニングなど、法務、開発、事業、人事といった部門を横断する全社的な取り組みが求められます 。また、自社がAIを導入して利用する「デプロイヤー」の立場である場合にも、使用説明書に従った利用、人的監視体制の整備、重大インシデントの報告、ログの保存といった義務が課されるため、これらの遵守状況も確認が必要です。

6.3.3 AI規制サンドボックスの活用可能性

特に、革新的なAIシステムを開発しているスタートアップや中小企業にとって、「AI規制サンドボックス」は非常に有効なツールとなり得ます。これは、加盟国が設置する管理された環境下で、規制当局の指導を受けながら、市場投入前にAIシステムを開発・試験・検証できる制度です。

このサンドボックスに参加することで、企業はコンプライアンスに関する不確実性を低減し、当局との対話を通じて円滑に市場参入を目指すことができます。

7. まとめ

2025年2月に一部施行が開始されたEU AI法は、AI技術の歴史における画期的な出来事であり、その影響は計り知れません。この法律は、単に技術を規制するだけでなく、「人間中心で信頼できるAI」という明確なビジョンを掲げ、EUの基本的権利と価値観をグローバルに展開するための戦略的な枠組みです。

その中核をなすリスクベースアプローチは、社会への脅威となるAIを厳しく禁止・制限する一方で、リスクの低いAIのイノベーションは妨げないという、合理的でメリハリの効いた規制体系を構築しています。このアプローチは、今後、世界のAIガバナンスの標準モデルとなる可能性を秘めています。

日本のAI規制が、イノベーション促進を最優先し、事業者の自主性を重んじる「ソフトロー」アプローチを取るのとは対照的に、EUの「ハードロー」アプローチは、コンプライアンスを法的な義務として企業に課します。この違いは、両者のAIに対する思想的背景の違いを明確に示しています。

EU AI法がGDPRと同様の「ブリュッセル効果」を発揮し、事実上のグローバルスタンダードとなる可能性は高く、EU市場でビジネスを行う、あるいは将来的に行おうとする日本企業にとって、もはや対岸の火事ではありません。自社が関わるAIのリスクを正確に評価し、求められるガバナンス体制を構築し、計画的に法遵守への対応を進めることは、もはや選択肢ではなく必須の経営課題です。この変化をいち早く捉え、適応することこそが、グローバル市場での競争力を維持・向上させる上で不可欠となるでしょう。

8. 参考文献

EY Japan、「【解説】欧州(EU)AI法(規則)の適用開始と日本企業の対応」

European Parliament、「EU AI Act: first regulation on artificial intelligence」

株式会社ブレインパッド、「世界と日本のAI規制と対策:AIの使用は法律違反になる?」

トレンドマイクロ株式会社、「EU AI法(EU AI Act)の概要と特徴の解説~日本企業が備えるべきこととは?~」

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